戸田山和久『哲学入門』について:もっと大胆にやれないか

戸田山和久『哲学入門』について。

この本は「ありそでなさそでやっぱりあるもの」を扱う。あるとかないとかの話をするなら、あるというのがどういうことか決めないと、話をすすめづらい。この本で、せっかく情報量の話を書くなら、どうしてこう言わなかったのだろう:情報量が大きいことが起きたらなにかあったということで、たとえば静寂に小さな音がするだけでなにかある感じがするのはそのためである。

戸田山氏は「私は唯物論者である」と言ってから、意味とか機能とか「人生にとって大切な『存在もどき』」を物理的ものだらけの世界に煎じ詰めようとする。まず問題がわからない。意味とか機能とかを「存在もどき」と「もどき」をつけて呼びたくなる気分がわからない。機能というのがうまくいきそうもないことがうまくいくことなら、もともとうまくいきそうもなかったほどに情報量が大きくて、なにかあるということになる。また方法が気に入らない。起源を論じて煎じ詰める方法は姑息であると思う。昔の世界がいまより簡単だったらたまたま使える論法で、筋がわるい。

この本は、最終的には自由や道徳の話をする。道徳の話は集団維持の話だから、進化で説明するのもいい。しかし自由については、せっかく情報量の話を書くなら、どうしてこう言わなかったのだろう:自由とは、自分がなにをしそうか、周囲の予想よりずっとよくわかっていることだと。ついでに、自分というのは世界の中でどうなるのかの予想がつきやすい一角だと。

あとがきに「哲学はすべてを一枚の絵に描き込むことを目的とする営み」とある。これはやったほうがいい。でも話は簡単なほうがいい。シャノンの情報理論に目をつけたなら、もっと大胆に使ったほうが話が簡単になったのではないか。